これまでも何度か、絵を描く楽しみについてブログに(①②)書いているのですが、最近また、みじみじと画面に向かっています。「学ぶは真似ぶ」を地で行くがごとく、19世紀の美術工芸品や図版に用いられている模様やデザインを見ては描いて、描いては眺めて…を繰り返す日々。うだるような陽気を避けて線や色に没入していると、あっという間に時間が過ぎていきます。
描いた絵はSNS上で「今日の一滴占」と題したひとことメッセージにくっつけて投稿しています。(Instagramにもあげてみました)なんとなくで始めたこと、足のつかない自転車を漕いでいるような状態ですから、いつまで続くかわかりませんが…
思いは言葉にして、更にもう少しいけそうなら、口よりも手を動かして。ポーカーフェイスは保ったまま、しかしその目はしっかりと愉悦の炎をたたえている。真剣にあそべ。#今日の一滴占 pic.twitter.com/t4ejAeN6yv
— 湊ゆきの (@93ymym) 2023年8月18日
臆病風を蹴散らすように、わざと大袈裟に、ビッグスマイルを作ってみる。そのうち心も追いつくでしょう。きっと大丈夫よなんとかなるわと自分を励まし、なんでもない風にまた、立ち上がる。 pic.twitter.com/2EomxJfSK3
— 湊ゆきの (@93ymym) 2023年8月17日
個人的な感覚としては、絵を描いているときは上半身だけ画面…というか窓のようなところから「絵の世界」に乗り出しているような心地。年若いころはこの乗り出し方があまり上手でなく、描き終えるといつもふわふわとしていたのですが、現実をたくましく生きる中年となった今は、そのあたりだいぶ心得たようです。
占い的な言葉にするならば、グラウンディングの問題なのでしょう。同様に、占いをするときは占いの窓を通して世界を見ている感覚ですし、他の言語を話しているときは「その地の言葉の窓」からひょいと顔を出しているような感じです。容易に外を眺められる窓もあれば、背伸びをしても窓の桟ほどまでしか届かないことも。
そのうえで、世界に臨むときにはたくさんの窓があったほうが面白いんじゃないかな?と思うのです。音の窓や、香りの窓、記号・数字の窓などなど。
加えて、自分では覗けない窓からの眺めを、他の人から教えていただくのもありがたいことですね。病禍をきっかけに個々それぞれに濃度が高まり飴色に煮詰まっていたものが、川の流れが合流するように混ぜ合わさっていく時期にさしかかっている気がします。