khushi-art blog

खुशी khushi クシーの意味は喜びや幸せ。描いたり占ったり。

言葉の呼び水

だいぶ時間が空いてよその国に行ったということもあり、忘備録的に他言語(第2言語、第3言語 ※非英語)についても書いておこうと思います。

言葉は使うものであり、そして忘れてしまうもの、という実感がより一層深まった日々でした。久しぶりに会った人たちから矢継ぎ早に繰り出される質問。それに対する答えはたしかに私の中にあるのに、以前のようにするするとは出てこないんですね。滞在初めの数日は、まるで声を失った人魚姫のように、ぱくぱくと口だけを動かすような時間を過ごしました。

言葉の海を泳ぐ

このときの私の状態をたとえるなら、手押しの井戸を出すとき、まずはじめにポンプ内に「呼び水」を入れますが、その「呼び水」に飢えているような感じ。聞きとったことはわかる、わかるけれどもあれはどう言うのだっけ、うーんうーん…といったもどかしさに、喉をかきむしりたくて仕方がありませんでした。隔靴掻痒とはまさにこのこと。

しかしそれより更に日を経ると、どうも「呼び水」が足りないだけで、これまで覚えたものを忘れてしまったわけではないらしいことがわかってきました。言葉のシャワーを毎日浴びているうちに、ちょろちょろとではありますが私の言葉の井戸からも水が出るようになってきたのです。このへんは「行く」と「来る」など、主体がどこにあるかを意識した語彙の使い分けができたあたりで、ひとまずの手ごたえを得ました。(自分の中のささやかな地下水源に手がとどいたような気がして、とても嬉しかった)

長らく、誰に何を問われても「言葉、ちょっとだけわかります」とこたえていたのですが、4言語を自在に操る年若い友人のひとりに「上手になったね」と褒めてもらえたので、ありがたく図にのっておくことにします。

そして、帰国してからぼんやりと占いに用いる語彙も似たようなところがあるかも…なんてことを思ったりもしました。日頃から使いつづけてこそ磨かれる、と申しますか。回路をスムーズに保つため、絶え間なく電気信号を流し続けておく必要があるように感じます。(少なくとも私の場合は)

他言語も占い言語も、日常語ではないという点で、ある種のチャンネルの切り替えが行われているのでしょう。「日本語を話す私」も「他言語を話す私」も「占い語を話す私」も、たしかにおなじ「私」ではあるのですが、それぞれには微妙なずれが生じている。そのギャップを埋めようとあがき、もがき続ける道は、生きている限り終わりなく彼方に伸びているのです。