khushi-art blog

खुशी khushi クシーの意味は喜びや幸せ。描いたり占ったり。

こころの避難訓練

壬寅の年のうちに、と思い立ち先月とまりがけの旅行に行ってきました。お世話になっている先生がたに行き先を占いで見ていただいたりして、既に心はその土地に向かっているも同然!だったのですが、出発の5日前に目的地が大雪で電車も運休になっている路線があるというニュース。吹雪のなか、雪の轍で身動きのとれなくなったトラックを数人がかりで押し出す様子をテレビで目にし、やむなく最初の旅程よりもすこし手前の観光地へと宿を取り直しました。

慌ただしく決まった旅。取るものもとりあえず出かけましたが、久しぶりの新幹線は流れる景色を見ているだけで胸が躍ります。私にとっては遠くに行くことそのものよりも、遠くに行ける自分でいることが何よりもお気に入りなのでしょう。

新幹線を降り、駅ビルでお蕎麦を啜りながら壁に貼られた案内マップを眺めていると、近くに標高200メートルほどの山と、麓にアスレチックを擁する児童公園があるとのこと。「あした、ここ行こうか」のんびりとそんなことを言い合い、次の日の予定が決まりました。

翌朝、軽めの朝食をとって早めの出発。外はまだ薄暗いのに「おはようございます」とわらわらエレベーターから降りてきたわたしたちを見て、ホテルの人もぎょっとしていました。

石段を踏みしめ山を登り始めれば息は白く、徐々に顔を出した朝日が背中をあたため、中腹に至る頃にはほのかに汗をかくくらいに。(これは筋肉痛になりそう~)と後の自分に手をあわせながら、こうして縁もゆかりもないところにお邪魔させてもらうのは、心の避難訓練みたいなものだなと思ったりしました。

日常を重ねる家やご近所にはもちろん愛着がありますし、慣れ親しんだ土地です。しかし、旅においてはひとときそこからぷつんと自分を切り離し、よその場所に置いてみるのですね。

あぁ、家にあれを忘れてきた、持ってきたら良かったな…なんてこともあるのですが、意外となくてもなんとかなることに気づき、たしかに不便なのだけれども同時にその縛られなさにほっとしたりもする。

迷子のような心許なさと、どうにかなるさという楽観のはざまで、いつのまにか堆積した垢をこそげ落とすような感覚。そうそう、こういう感じだった!と忘れかけた感触をたしかめるように黙々と山を登りました。

途中で「もう引き返そうよ~」と言いだす人がいるに違いないと思い、のろのろと歩を進めていたのですが、先に弱音をはいたのは私のほう。「疲れた!そろそろ戻ろうか?」と同行者に尋ねましたら「何言ってるの!頂上まで行く!」と逆に発破をかけられ、一同の最後尾を頑張ってついていくかたちに。

自分が言い出しっぺで、私が連れていくのだという考えはたいへんな驕りで、いつのまにやらこちらが付いてきてもらう・連れて行ってもらう側になってきつつある…というのも、この旅の大きな気づきでした。日頃通い慣れた道を往復するばかりでは得られなかったであろう収穫です。

てっぺんに着いたと思ったら今度は流れるように滑らかに下山してゆくみんなの足取りを惚れぼれと眺めつつ、ひとり膝をがくがくさせて復路を下る私。またこうして避難訓練をするまでに、もう少し体力をつけておかねばならないようです。

道中のひとこま